第2回 道草をたべる会

道草くってみませんか?

身近な野草を見分けて・摘んで・たべちゃう会をはじめて今回が2回目です。

今度は、なんと完全な自然農法で有名な野瀬さんの畑で草を摘ませてもらいます。

いまの季節、スベリヒユ、ツユクサあたりが旬かなと思います。

詳しくはチラシをご覧ください。

土が違うと野草の味も違う(はず)ご一緒に確かめてみませんか?

マイ箸・マイ皿ご持参でお願いします。

江戸〜東京の野菜たち

 江戸〜東京の近郊農村では、地域特有の野菜があちこちで作られていました。
 江戸時代から作られていた地場特産野菜が図1、明治以降に作りはじめられた野菜が図2です。品種として固定された野菜と、産地として名高いものと、両方が含まれています。また、野菜以外の麦も含まれています。
 二つの図を見比べると、産地が江戸城からみて外側に移ったことに気づきませんか?

 江戸時代のはじめごろは、江戸城からほんの1〜2kmの本郷や、小石川、小日向あたりに、近郊農村が成立しました。江戸の「草分け農村」とよばれます。わたしが名付けた「江戸ノ背」の東の先っぽ、武蔵野台地の先端にあたります。

 元禄年間に当時世界最大の百万都市に発展すると、江戸の町はさらに拡大しました。町人も増え、江戸の人口は急増し、草分け農村に町家がたちならぶようになりました。 

 近郊農村は、駒込、雑司ヶ谷などに移り、さらに板橋−練馬−杉並−世田谷−馬込あたりまで、外へ外へと広がりました。図1に示した地場特産野菜は、ほぼこの江戸時代の近郊農村のエリアに重なります。

 ほぼ江戸城から四里(約16km)の範囲です。これが「夜行日帰り徒歩圏内」つまり、野菜を積んで夜中に村を出発し、朝はじまる青物市場の競りに間に合うように江戸に向かい、競りをやっている間にひと休みしてから仕切り(代金)をもらい、下肥を汲んで、日暮れまでに村に帰る。こういう時間行程で行き帰ることができる距離が、おおむね四里になります。

 明治維新の混乱期に、一時的に東京の町は縮んだものの、富国強兵の国策にのって、東京市は拡大発展し、近郊農村はさらに外側に移り広がりました。

 明治政府は、近代化の一環として、西洋の最新農業技術の導入にも注力しました。農事試験場(現・北区西ヶ原)や、東大農学部の前身である駒場農学校(現・目黒区)、三田育種場(現・港区)、蚕業試験場(現・杉並区)などが、東京近郊に集中してつくられました。首都に近く、お抱え西洋人教師や役人が通うのに便利だったと同時に、種子屋の蓄積や篤農家の存在などの伝統が、東京近郊にあったからではないでしょうか。また、研究成果の情報発信の面でも、首都に近いことは何かと便利だったでしょう。

 このような素地のうえに、数々の地場特産野菜や、本州向けに秋まき春どりに改良したキャベツである中野甘藍(かんらん)、国産初のビール麦である金子ゴールデンなどが、明治から昭和初期にかけて、東京の近郊農村から生み出されました。

 

 地場特産野菜がたくさん生まれたのは、なぜでしょうか?

 全国各地の特産野菜が江戸に集まってきた、という歴史的な背景が第一の条件です。強力な中央集権国家ができ、人と物の流れが江戸に集中するなかで、多様な野菜の遺伝子シャッフルも行なわれたことでしょう。なかには、元禄年間から練馬で作られていた大根を片親に、享保年間に中国から取り寄せた大根をかけ合わせ、沢庵大根として有名な「練馬大根(尻細)」の直接の先祖が作りだされた、という海外交流の例もあります。

 栽培技術を諸国で学んで持ち帰り、新しい特産野菜を生み出した例もあります。のちに「井荻うど」と呼ばれるようになった軟白ウドが、その一例です。上井草村寺分の農民、古谷岩右衛門が、尾張で栽培方法を学んできて作りはじめました。村人は、自分たちの村のことを昔ながらに「遅野井村」と名乗り続けていましたから、本来は「遅野井うど」でよいと思いますが、明治期に合併によって井荻村が成立し、もっぱら「井荻うど」の名で知られるようになりました。それが広まり産地が移って「吉祥寺うど」になり(もっとも吉祥寺村は上井草村寺分のすぐ隣りですが)、さらに西へ西へと移動し、立川まで行き着いてから「東京うど」と名が変わり、いまも東京都は全国第4位のウドの産地です。

 もうひとつ見逃せないのが、江戸〜東京の地勢です。

 江戸城は、古多摩川の扇状地である武蔵野台地のしっぽが伸びて、東京湾に落ち込む先端に位置します。東には、古利根川の河口デルタである下町低地が広がります。そこは、江戸時代初期に旧・下総国葛飾郡の西部を武蔵国に編入したため「葛西」と呼ばれた地域です。大河で運ばれた肥沃な土壌ですが、耕土は薄い。そういう土壌を生かして、葉もの中心の野菜産地になりました。痛みやすい菜っぱでも、網の目のように張り巡らされた運河や川を使って江戸市中の河岸まで舟で運べる、という利点もありました。

 南には、目黒台、荏原台と呼ばれる古い台地のすきまを目黒川、呑川などの中小河川が流れ、なだらかな起伏をおりなす台地が広がっています。この地は、伝統的にキュウリ、カボチャなど「なりもの」(実もの)を主体とした野菜の産地でした。

 そして西から西北さらに北にかけて、武蔵野台地が伸びてきています。これを、わたしは「江戸ノ背」と呼んでいます。関東ローム層の上部に落ち葉や枯れ草が混ざってできた黒土が分厚く堆積しています。50m崖線(「ねりま歴史さんぽ」参照)より上では、同じ黒土でも、軽土、ほこり土などと呼ばれた乾燥し痩せた土壌に覆われており、麦、雑穀、芋が産物の中心でした。江戸から遠いので、野菜作りに欠かせない下肥を運ぶうえで距離的な制約があった、という面もありました。

 これに対し50m崖線より下では、湿り気を含んだ黒土の表土が広がっています。燐肥を足し、また酸性土壌を中和する石灰をまいてやれば、ふかふかの土なので、野菜作りには適しています。堆肥などをすき込み、よく耕した畑では、耕土の深さは80〜90cmにも達します。そこに畝を盛れば、1m以上の長さにもなる練馬大根や、滝野川ごぼう、滝野川にんじんなど、立派な根ものを作れる、という寸法です。

 さらに、その土地によって、川や池泉などの影響も受け、微妙に土質が変化しています。また、中山道沿いに種子屋が集積し、品種改良が盛んに行なわれた滝野川の例や、江戸城のゴミを処理し土に埋めているうちに生ゴミの発酵熱を利用して野菜の促成栽培法を編み出した砂村など、土地ごとにさまざまな特殊条件をもとに、特産野菜が生み出されていきました。