石神井川たんけん

石神井川は、武蔵野台地を西から東へ流れる川です。一級河川に指定されているのは、小平市・小金井公園の北側付近から、北区豊島・堀船・宮城の境で隅田川に合流するまで、約25kmです。

石神井川の源流部

 一級河川・石神井川の起点は、小平市花小金井南町の公園北橋です。小金井公園の北側にあたります。この付近の普段の水量はごくわずかで、川床の中央に設けられた狭い流路をちょろちょろと流れているにすぎません。

 しかし、その上流部には暗渠が続いています。

 石神井川の本来の源流部は、小平市鈴木町の鈴木小学校付近で、ここに谷頭(こくとう)があります。

 谷頭を取り囲むように、鈴木遺跡があります。旧石器時代の遺跡としては、武蔵野台地最大のみならず関東地方でも有数の大きな遺跡です。3万5千年前〜1万5千年前頃の人々が生活を営んでいた跡で、ナイフ形石器や局部磨製石斧、また石器を作った跡、集石遺構、落とし穴の跡などが見つかっています。その頃は、まだ定住せず、遊動的な生活をしていた時代です。ここを拠点に、石神井川流域などを広く狩猟・採集しながら回遊する生活を送っていたと考えられます。

 鈴木小学校の西側、小金井街道をはさんで鈴木遺跡資料館があり、出土物などを見学できます。

 石神井川本来の谷頭は、縄文時代にはすでに水量が乏しくなっていたと思われます。このあたりでは縄文遺跡はごく貧弱になり、中心のムラはもっと下流の西東京市下野谷遺跡に移ります。

 江戸時代になると、鈴木用水の流末を引き込んで、石神井川の水を足していました。

 今日、鈴木小学校の下流には、武蔵野団地と名付けられた分譲住宅地がくぼ地をふさいでいます。
 そのさらに下流は、小金井カントリー倶楽部のゴルフコースになっています。そこにいくつか湧き水があるそうですが、ゴルフをしないわたしは、まして名門ゴルフ場とあって、柵の中に入ったことがなく、確認できていません。

 外から見えるところで石神井川の水を確認できる最も上流の場所は、花小金井南町、小金井街道の脇で、1.5mほどの穴の底にたまり水が見えます。

あちこちからわき出る湧水

 武蔵の台地を流れる中小河川はいずれも、崖線のあちこちから湧水がわきでています。護岸のすきまからしみ出し、また暗渠口からちょろちょろと流れ込む水の多くは、雨水を濾過し大地から絞り出されたわき水です。

 石神井川の崖線湧水で水量が安定して多いのは、上石神井の松ノ木橋と、下石神井の根が原橋のたもとです。松ノ木橋の湧水は、2段になった護岸の途中からしみ出し幾筋もの水の糸となって流れ落ちています。わたしは「白糸の滝」(なんちゃって)と呼んでいます。思いっ切り目線を下げ狭めて見てください。

 こちらは「丸窓三条の滝」。下石神井の根が原橋のたもとにあいた暗渠口から流れ出る湧水です。ここは、伊保ヶ谷戸(いぼがいと)と呼ばれたミニ谷戸が流れ込んでいたところです。

 今でも、普段、水量がほどほどにあるときは三条、雨後、水が多くなると太い一条、少なくなると二条、などと水の筋が変化します。

 この橋から上流のあかね歩道橋にかけて、川床に土が残され、草や灌木が茂り、昔の川に近い姿が復元されています。地元の佐藤さんが先導し、このようなかたちで整備されました。

 あかね歩道橋付近には、かつて水門があって用水が取水され、東京オリンピックの翌年か翌々年まで、水田稲作が行なわれていました。それが石神井川流域で最後まで続けられた水田稲作だと思います。わたしは、小学校5年から卒業まで石神井小学校に通い、このあたりは遊び場にしていました。

「や」と「やま」

 「矢ノ山眺望図」江戸時代、寛政六年(1794)に描かれた絵です。(板橋区立郷土資料館蔵)

 矢ノ山とは、練馬城跡のある石神井川南岸の小高いあたりの旧名です。というより、としまえんのウォータースライドのあるあたり、といった方がわかりがよいでしょう。

 「や」というのは、矢、谷、野、八などの字を当てますが、もともとは氾濫原のことです。武蔵野台地では、中小河川が屈曲してくぼ地が狭まり、洪水のたびに比較的広い氾濫原が広がるところに、「や」のつく地名があります。石神井川では、矢ノ山のほかに、谷原(やわら)、下野谷(したのや)。白子川では、八の釜(やのかま=比丘尼橋上流の氾濫原の端にある湧水)、矢川(やがわ=白子川の旧名のひとつ)。みな氾濫原のあるところにつけられた地名です。

 「やま」は、武蔵野台地では、崖線斜面林をくぼ地の底から見上げて「やま」と呼んだものであり、また屋敷森を含め、こんもり茂った森のことを「やま」と呼びました。

 それにしても、この矢ノ山、えらく急峻な山のように描かれています。しかし、石神井川のほとりにしゃがみ込み思い切り低いところから、本丸跡や城山稲荷があったあたりを見上げ、崖線をなだらかに削り擁壁を造る前の崖線斜面林を想像し、樹木もうっそうと茂らせてみれば、まぁこんなふうに見えないこともない。誇張はあるにしても。

 としまえんは、昭和2年(1937)に開園したころは「練馬城址 豊島園」と名乗り、城跡がひつとの見所とされていました。石神井城を本拠とする豊島氏の支城があり、豊島兄弟の弟、平左衛門尉が城主をつとめていました。太田道灌に攻められて落城し、兵は石神井城に逃げ延び、ほどなくそこも落城し、豊島氏は滅亡の道をたどります。

 『矢ノ山眺望図』が描かれたとおぼしきあたりの現在の風景です。中の橋から、としまえん園内を望んでいます。

 現風景と比べると、上の眺望図は、誇張はあるにしても、まぁ雰囲気はでている絵でしょう?

 としまえんのあたりを東京都が買収し「練馬城址公園(仮称)」として都市公園化し、防災公園として整備する、という計画が2012年に発表されました。事業計画を決定するのが10年後という長期構想ですが、どのように進展し、どのような公園になるのでしょう? また、遊園地としてのとしまえんや庭の湯はどうなるのでしょう? 世界機械遺産にもなっているメリーゴーランドは? ・・・とりあえずどんな計画なのか、防災公園とどんなものか調べてみよう、ということで「とりあえず練馬城址公園の会(準)」をつくりました。ホームページも、とりあえず出来ています。

http://t-nerima-jyoushi-park.jimdo.com/

 

川と農業

 練馬区と板橋区にまたがる城北中央公園のあたりにあった栗原堰の写真です(練馬区情報公開室蔵)。「くりばら」と地元では濁って発音していました。

 現・城北中央公園付近の崖線の上から、上流方面を望んでいます。この付近は昭和10年代に耕地整理という名目の区画整理が実施され、あわせて河川改修され直線状の流路につけかえられました。しかし、また一面の水田で、堰の上流左脇には用水が流れ込んでいます。これは、千川上水から引かれた下練馬村分水(羽澤分水)の流末です。

 遠くにぼんやりと開進第四小学校の校舎らしきものが写っています。開校が昭和30年(1955)ですから、この写真につけられた「昭和31年頃」という表示は一応つじつまが合いますが、岸辺の感じなどからするともう少し前の建築中のころに撮った写真ではないかな、とも思い、やや疑念がのこります。

 

 上の栗原堰の写真とほぼ同じ地点から撮った現在の写真です。

 堰があったのはどの辺だろうかと撮影地点を探していたら、通りがかった女性が「そこよ、そこ」と教えてくれました。

 堰があったのが、ちょうど練馬区と板橋区の境です。昔の用水は、村を単位に分水されるのが常でしたから、必然的に上流川の村境に取水口が設けられることが多かったわけです。このあたりは、石神井川の南岸も、城北中央公園の一部として着々と整備が進められされています。川床がずいぶん深くなったことがみてとれます。

 

 南田中にあった水門の写真です。

 かつての川はどこでもたいていそうでしょうが、本流はくぼ地の一番低いところを流れますから、水を引くのが難しいという難点がありました。山地に近い土地なら、谷あいで取水することができます。しかし武蔵野台地では、よほど上流で取水しハケ下の流路を用水にして引いてこないと、水を確保できません。

 あるいは高い堰を築き土手をかさ上げして取水するか、足踏みの水車を使ってくみ上げるしかありません。前掲の栗原堰から取水し、上板橋方面に引かれた「あげ堀」もこのような用水堀だったと考えられます。

 高松の八幡神社下を通って引かれていた用水は、江戸時代からの古い用水が原形ですが、地元のご長寿さんにうかがったら、石神井川から引いたのではなく、谷原の弁天池(市杵島神社がのこっています)を水源としていました。

 また、台地の上を引かれた千川上水からの分水も利用されていました。

 石神井川の下流では、下板橋宿根村の洗い堰で取水していた上郷七ヶ村用水や、王子村の石堰で取水した上郷三ヶ村用水と下郷ニ十三ヶ村用水がありましたが、昭和初期までこのような本格的な堰は、練馬にはありませんでした。

 ようやく本格的な水門が造られたのは、昭和20年代になってからのことでした。河川改修によって、川底を掘り下げ、その土で土手を築き、護岸を整備し、コンクリートと鉄でできた水門を建設したのです。水門の位置は、両岸のハケ下用水に引きやすい地点で、しかも土地の勾配が比較的急で高低差をとりやすい場所が、慎重に選ばれたようです。また小規模な取水堰は廃され、数カ所にまとめられました。南田中から上流でいえば、この写真の南田中と、下石神井、上石神井の3カ所に、同じような規模と形の水門が造られました。

 当時の金では相当工事費がかかったのでしょうが、そうまでして造られた水門も、長くは使われませんでした。1960年代から次々と水田が耕作放棄され、宅地造成され、また団地が建設されました。都市化が進み、水は汚れ、洪水が頻発しました。もはや水田稲作どころではありませんでした。小学生から中学生にかけて、わたしは下石神井での水田稲作の終焉をみていましたが、水田に黄色じみた油が浮かび、子供ごころにも、こんな田んぼで作ったコメを食べてもいいのかな、と思ったものでした。

 水門は水の流れを悪くし洪水被害を増すと嫌われ、1970年代にはすべて撤去され、短い役割を終えました。


貫井(ぬくい)の地名説話に物申す ★新

「貫井の小流 昭和31年頃」と題された練馬区情報ひろば蔵の写真です。
 貫井の小流とは、石神井川支流の貫井川のこと。千川上水が引かれた尾根筋の直下を谷頭とするミニ谷戸に、下石神井から南田中経由で流れてきた小川が合流し、貫井中学校の南側あたりに湿原をつくっていました。
 かつては「貫井池」があったとされますが、江戸時代後期の村絵図には、すでに明確な池は描かれず、萱原と一部は水田としてあらわされています。明治・大正期の地図をみると、一時は水田になりますが、じきに耕作放棄されたようで、戦後は「牧場になっていた」と近くで育った方にお聞きしました。
 この写真をみると、牧草地というよりも湿原。氾濫原そのものですね。おそらく石神井川流域には、かつてこんな風景が広がっていたのだと思います。川は、どこが本流とも定まらず、乱流を繰り返していました。
 ところで貫井には、「弘法大師が日照りに苦しむ村人をみて杖で突いたところ泉が湧きだした」という地名説話があります。だいたいこういう地名説話は矛盾だらけのこじつけで、弘法大師がご存命のころ、このあたりで水不足があったというのは疑わしい。
 石神井川沿いでは、さして人口が多くない時代、湧水だけで十分に飲み水ていどはまかなえました。崖線の下を馬蹄形に掘り込めば水が得られたのです。そういうかたちの平安時代の井戸の跡が、尾崎遺跡でみつかっています。しかも石神井川は「どんな日照りにも涸れることがない」といわれた三宝寺池を主水源としていました。
 江戸時代以降の水不足は、主として田用水の不足をさします。大量に水を使う水田が、石神井川沿いの低地いっぱいに開かれたから、水不足が起きたのです。あるいは夏に日照りが続くと、大根の種がまけないなど、野菜作りにも影響がでました。広い畑に水をまこうとすれば、泉や井戸では所詮足りません。雨を待つしかありません。そこで丹沢の大山などに雨乞いに行きましたが、それは江戸時代に野菜作りの近郊農村化してから以降のことです。
 古代から中世まで、練馬あたりに水田があったとしても小さな谷戸田で、谷戸の湧水は本来、比較的安定していましたから、村人が水不足に苦しんだというのは、きわめて疑わしい。おそらくは江戸時代に水不足が問題になってから、日本各地にある大師伝説を模倣して作られた話です。
 むしろ貫井は、本来、湧水が豊富な地域ですから、弘法大師に掘ってもらわなくても、泉はふんだんにあったはず。わざわざ井戸を掘る理由はありません。
 そう考えると、「井をぬいた」ことが地名の由来というのは、こじつけと考えざるを得ません。
 井の水が「温い」ことから、という説もありますが、それも無理。冬場に地下水がぬくいのは、どの地でも同じこと。もちろん貫井に温泉などはありません。夏場は反対に「ひやい」になります。「ぬくい」では「ここ」を特定する地名として機能しません。
 わたしは、井(池)から排水路を掘って水を抜いた、それが「ぬくい」の語源ではないかと考えています。小金井市の貫井(仙川の水源部)もそうですが、この地は、水が集まる湿地帯でした。その水を抜いて水田を開発したのではないか、と思うのです。谷戸田では足りず、もっと水田を広げたい。そのとき武蔵野台地の中小河川の氾濫原で難題だったのは、いかに水を引くかではなく、いかに水を抜くかでした。
 日本で白米として普通に栽培されているイネは、穂が出たら田んぼの水を落とさないと、うまく収穫できません。水を抜けないザブッ田、ドロッ田では、赤米・黒米のたぐいの「唐法師(とうぼうし、とぼし)」しか作れません。本来均質であるから年貢・給米として役を果たす白米に、赤米・黒米が混ざることがひどく嫌われ、律令時代以来、何度も何度も「唐法師作るな」のお触れが出されました。(この話はまたどこかで)
 自給用以上に水田を広げるのは年貢の収量増をはかるためですから、中世・近世の水田開発は、「水を抜ける水田」の開発に力が注がれました。
 貫井は、ミニ谷戸の湧水にくわえて小川の水が流れ込む、という独特の地形をしています。貫井池があったところは、石神井川の水面からみると2m前後のレベル差がありますから、これを利用して堀割をつくれば水を抜くことができます。排水路がととのえば、あとは用水の量を調節することで、自由に水量をコントロールすることが可能になり、「白米のとれる」良田ができた、という寸法です。ここも、そのようにして井の水を抜いて水田開発されたから「貫井」だったのではないでしょうか。

 『上練馬村絵図』の貫井付近を部分拡大した図です。(安政三年 (1856) 長谷川恒範氏蔵。『絵図にみる練馬 (1)』練馬区郷土資料室 2008 より複写)

 円院の南、清戸道をはさんで、なすび形のような萱原が描かれています。これが貫井の湿原で、池の跡です。

 円光院は「南池山」という山号があり、寺の南に池があったことに由来します。

 

 

洪水の記憶

 石神井川で最もひどい洪水被害が起きたのは、昭和33年(1958)のことでした。崖線の縁りぎりぎりまで、くぼ地がすっかり水につかったといいます。写真は、北区の音無橋で、橋の下が渓流のようになり茶店がたち景勝地になっていましたが、濁流の飲み込まれています。それでも、子供たちがこわごわとのぞき込んでいますから、雨がやんで水が引きはじめたころでしょうか。
 武蔵野台地の川は、かつては「三本川」が本来の姿でした。江戸時代の村絵図や明治期の地図には、その姿がよくとどめられてまいす。真ん中を流れる本流(とはいえ曲がりくねり乱流し、たびたび流れが変わっていましたが)の両脇に、崖線下を氾濫流路が流れ、三本が合わさって「川」をかたちづくっていました。
 都市化と並行して行なわれた河川改修によって、三本が一本にまとめて直線化され、鋼矢板とコンクリートの護岸でかためた新流路に、川は押し込められました。くぼ地の水田や湿原は埋め立てられ、宅地造成され、あるいは団地がたち並びました。たしかに人口は増えた。しかし、自然の摂理に反した暴挙でした。
 川は反乱(氾濫)を起こします。
 空前の大雨を記録した狩野川台風とはいえ、そのころから進行していた河川改修と氾濫原の埋め立てによって、石神井川の構造が変わってしまったことが、大被害を引き起こした原因です。
 川がもたらした恩恵を忘れた人間に対する、精一杯の抗議だったのかもしれません。

 現在の音無橋。ここは石神井川の旧流路で、親水公園になっています。

 石神井川の本流は、王子駅の真下にトンネルを掘って、そちらを直線状に流れるようになっています。JR駅のトイレの汚水の配管を間違え、石神井川に流れ込むようになっていたという大失態が発覚したのは、つい最近のことでした。そこまで川をいじめてよいものか・・・

 音無橋の下には、こんな流木がいくつか残されています。こういう遺物を警鐘として受け止めなければいけません。

 石神井川は、1950年代から1980年代にかけて、たびたび洪水を起こしていました。

 写真は、田無南町付近。こんな光景が大雨のたびにみられました。

 原因は都市化です。ことに氾濫原を埋め立て宅地開発し、鋼矢板やコンクリートの垂直護岸の狭い流路に無理矢理川を押し込めたことが、主因でした。

 武蔵野台地を流れる中小河川は、普段、湧き水によって保たれている水量はさほど多くありません。善福寺川で日量1,000トン程度です。ところが、ひとたび大雨に見舞われると、台地上に降った雨水がくぼ地に流れ込みます。昔、くぼ地は氾濫原で、沼地のカヤ原や流作場、また実りの多くないドブッ田だったので、水につかっても、どうということありません。流作場(りゅうさくば)、すごい言い方でしょ。作物が流れたら残念、うまくいったら収穫できる、そんな在りようがあらわれされた言葉です。

田柄用水 〜時代に流された用水〜

 田柄用水は、明治4年(1871)に開通した用水です。玉川上水の水を引いた田無用水から田無宿の北で分水され、当時の下練馬村と上板橋村の境の神明橋まで、工事記録に残る全長は約17kmあります。

 武蔵野台地の上を全く新規に開削したのは、韮窪(現・三原台)までで、そこからは元々あった涸れ川を掘りくぼめ、また自然河川につないがれていました。
 明治4年の1月に分水願いが出され、4月に許可、11月には早くも開通しました。土木機械もない時代に流域の村々が自力で工事したにもかかわらず、半年ほどで開通という早業ができたのは、元からの川をうまく利用したルート選択の妙があったから、といえそうです。
 1980年代にすべて埋め立てられ、暗渠化されましたが、石神井台のけやき憩いの森の中に素掘りの濠の跡が残っています。

 けやき憩いの森(石神井台7丁目)は、富士街道の脇の屋敷森の一部を区が借り受け、公開しているものです。1970年代に道路拡張の際、ケヤキの並木を残すために土地所有者の本橋馨さん(故人)が尽力された結果、ケヤキが保存され、屋敷森の敷地内を通されていた用水の跡も姿をとどめました。落ち葉や土がたまりたいぶ浅くなっていますが、田柄用水の堀の跡が残っているのはここだけで、区の文化財に登録されています。

 屋敷の敷地内には、沢庵大根の洗い場跡のコンクリート水槽も残っています。

 

田柄用水の変遷

 田柄用水が引かれた流域には、もともと石神井川の一支流である田柄川という小川が流れていました。

 しかし水量は少なく、常時水が流れていたのは田柄谷(現・光が丘付近)から下流に限られ、江戸時代に造られた下練馬の溜井によってようやくわずかな水田が開かれていました。田柄谷より上流は、韮窪という名の浅いくぼ地が続いていましたが、大雨が降るとダァーッと流れ、晴天が続くと干上がる、いわゆる涸れ川の状態だったと考えられます。水場がないところには成立しなかった縄文時代までの遺跡は田柄川流域になく、江戸時代の文献にも田柄谷より上流には水田がないと記されています。

 水不足に悩んできた流域の村々は、江戸時代から用水計画をあたためてきたようですが、武蔵野台地では、玉川上水から分水しないと、安定した水源が得られません。ところが幕府によって管理されていた玉川上水からの分水は、容易に許可されませんでした。

 明治4年(1871)になって念願がかない分水が許可されたのは、おそらく明治維新の混乱期に統制がゆるみ、それに乗じて分水許可を得た、という背景があったのだと思われます。当時は、冥加金を払って許可してもらい、用水の工事費用は、利用する村々が自弁しました。実際には、名主や村役をはじめ村の富裕層が費用を負担し、村人たちが労役にあたりました。基本的に無償労働、ただし飯や時々の酒は、村の負担です。このあたりの事情は、小説ではありますが『水神』(帚木蓬生)でうかがうことができます。
 ようやく開通したものの、当初は下練馬まで水がよく届かず、田無の水番のもとに金品を届けると、ようやく水が流れ、また流れが悪くなると・・・といった話しが伝わります。

 明治20年代になって、田柄用水の水事情は一変しました。石神井川下流に、造兵廠の板橋火薬製造所や王子製紙の第二工場ができ、その工業用水として石神井川に合流していた田柄用水の増水がはかられたのです。

 大沼用水(現・小平市)の名目で得た増水枠を借り受けるかたちで許可を得て、費用の大半を王子製紙が負担して工事が行なわれました。官営軍需工場の動力水車に使うということで強引に許可を取り、費用は渋沢栄一が経営する実質的な国策会社が拠出していますから、富国強兵策の余録のような増水の実現でした。
 下流の工業用水が主目的ですから、中間の流れの悪いところは、つけかえられ、下練馬宿をめぐっていた流路もこのときに廃止されたものと考えられます。
 ともあれ増水工事のおかげで、流域の水田も一挙に拡大され、水車も次々とたてられました。いま田柄の氷川神社に残る「上練馬村玉川上水分水記念碑」がたてられたのも、増水後の明治26年(1893)のことでした。

 その後、太平洋戦争下の昭和18年(1943)になると、戦局の悪化にともない帝都防空のため陸軍成増飛行場が建設されました。田柄谷をふさぐかたちで1500mの滑走路が突貫工事で造られ、田柄用水はトラック1台が通れるほどの太さのトンネルにされ、滑走路の下をくぐらせました。

 飛行場より下流の田柄川は、水はけをよくするために1本にまとめて直線化されました。その北側の崖線下を引かれていた田柄用水は、かろうじて命脈を保ちましたが、飛行場を狙って何度も爆撃され、用水が破壊されたこともありました。

 戦後もかろうじて使われていた田柄用水でしたが、都市化が進み、特に水田がなくなり田用水としての役割を終えると、無用の長物視されるようになりました。水が汚れ、生活排水も流れ込んで悪臭を放つようになりました。

 都市化によって畑や雑木林が宅地化し、道路がコンクリートで覆われたため、都市型の洪水が頻発しました。「厄介堀」などとさえ呼ばれるようになってしまいました。さらに、用水で幅を狭められるよりも道路の拡幅を、という声もあがりました。

 こうして、まったくドブ川化していた田柄用水は、1970年代から暗渠化が進められ、1980年代までにはすべて埋め立てられ、姿を消しました。わずかに個人宅の敷地内に掘られていた、けやき憩いの森の部分のみ、堀の跡が残されていることは前述のとおりです。
 しかし、下流の田柄川の部分や、土支田・三原台・石神井町付近などでは、緑道や遊歩道として残されている区間も多く、また上流の西東京市内の大半の区間には暗渠ふた掛けが残されています。
 

下練馬宿をめぐる水路の真実

 田柄用水の当初の目的のひとつは、下練馬宿に水を引くことにありました。川越街道の宿場町で、江戸時代〜明治期は、けっこう賑わっていました。

 青梅と飯能のあいだの入間川上流部は、西山杉と呼ばれた木材の産地でした。江戸の大火の復興のたびに、西山杉が伐り出され、イカダを組んで川をくだり、木場に送られました。イカダ職人は、たっぷり給金をもらって川越街道を帰ります。そこに待ち受けるのが下練馬宿で、宴会騒ぎのあげく飯炊き女たちが職人のふところを洗いざらいむしり取る、というわけです。
 もちろん色目当てだけでなく、下練馬宿には種子屋(たねや)や道具屋なども並び、土産に買って帰る人でも賑わいました。
 その宿場の生活用水としても、田柄用水は期待されていたと思われます。
 練馬区のかつての刊行物には、この下練馬宿の川越街道旧道沿いに田柄用水の流路が示されていました。たしかに、北町5丁目で北に折れ、川越街道バイパスを越えて、聖徳病院の脇を抜け旧道に至る水路敷が残されています。
 ところが、現地調査してみると、その先は水が引けません! 川越街道旧道は、石観音堂に向かってゆるいとはいえ比高差2mほどの坂をのぼり、環八通りに向かってくだり、練馬下宿に向かってまた坂をのぼります。無理矢理、街道沿いに引こうとすれば、深さ2m、斜度45度として4m以上の幅員が必要になります。にぎわっていた宿場町の表通りに、こんな用水を通せたわけがありません。こんな流路図を描いてしまった方は、一度でも現地に足を運ばれたのでしょうか?
 原因は、大正期のものとされる宿場図に、街道脇に水路らしきものが描かれていたからだと思われます。しかし、これは江戸時代の宿場図をもとに、大正期の店を示したものでした。このことからも、明治4年に開通した田柄用水とは無関係のものだということがわかります。しかも、よくみれば、街道沿いに一本にはつながっておらず、ところどころで切れて、南側の田柄川に向かう筋が描かれています。つまり、これは用水ではなく、宿場町からの排水路、いわゆる悪水堀だったと考えられます。その跡の狭い水路敷が、ところどころに残っています。
 現地調査してみると、いったん旧道沿いに引かれた用水は、のぼり坂を避けて南側の崖線下に迂回していたことがうかがえます。断続的に路地や道路が続いています。阿弥陀堂の脇の道路などがその痕跡です。また、下宿付近では、民家に入る私道があり、お話しをうかがうと「家を買ったとき調べたら、私道だと思ってたのが国有地だということがわかり、払い下げてもらいました」といいます。つまりは、用水跡の水路敷だったということに違いありません。
 おそらく明治20年代の増水工事の際、下練馬宿をめぐる水路は、流れをよくするために廃されたのだと思われます。北町5丁目、用水が北に曲がっていた場所で生まれ育った大正初期生まれのご長寿さん(故人)にお聞きした話しでは、「うちの前から北に曲がっていた用水というのは記憶にないなぁ。田柄用水は池っ端(いけっぱた)に落ちるところが一番水量が多く、うちの前で南に曲がっていたところは田用水に引き、余水が田柄川に落とされていた」といいます。
 現地調査に基づいて、引き直した田柄用水の流路が、図に示したルートです。

練馬付近のミニ谷戸

 練馬付近の石神井川南岸には、ミニ谷戸が連なっています。長さ200〜500m前後、比高差2〜5mぐらいの崖線で縁取られた細長い谷で、行き止まりになっているのが特徴です。

 武蔵野台地では、こういう地形に「谷戸」の地名がつけられています。

久保・窪の地名のところよりは、谷がやや深く、より明瞭な崖線をもつ、という傾向があります。

 谷戸の地名には、谷津(やつ)、谷地(やち、やじ)、谷ツ(やつ)、谷(やつ)などの変形がみられます。もともとの古い東国のことばでは、地域ごとのなまりはあるものの、同じことばだったと考えられます。文字にあらわすようになって、さまざまな表記のバリエーションが生まれ、こんどは文字に引きずられて、異なる発音が定着していった、とわたしは考えています。

 このあたりに谷戸が多いのは、50m崖線に関係します。そこが武蔵野台地の扇状地としての縁りで、その下流に位置するこのあたりは、扇状地の裾野にあたります。川沿いのあちこちから湧水がわきだし、小さな谷を刻みます。やわらかい関東ローム層はどんどん浸食され後退していき、稜線の下あたりで止まります。

こうして、この地域には、ミニ谷戸がいくつも連なる独特の地形がかたちづくられてきました。50m崖線より上流の武蔵関以西には谷戸がなく、また下板橋区中部あたりから下流も谷戸は少なくなります。

 

練馬区 谷戸マップ

 練馬区内には21カ所、「やと」または「やつ」「やち」のつく地名がありました。このあたりでは、何々ヶ谷戸を「何々がいと」あるいは「何々げぇと」と発音していました。これらは、『新編武蔵風土記稿』や村絵図など江戸時代や明治期の史料に記載された小名(こな)であり、また古老聞き取りなどで集められた通称地名です。文字記録しかなく、場所が明示されていないものについては、推定による場所を図示してあります。

 そのうち、蕪ヶ谷戸1カ所を除き、対応する谷戸地形を認めることができます。いずれも石神井川や白子川などの支流の行き止まりになった短い谷があります。

 海老ヶ谷戸は、小名としては石神井川北岸ですが、石神井川の南岸にたっていた馬頭観音に「海老ヶ谷戸」と刻まれており、もとは両岸にまたがる地名だったとことがわかります。南岸には、現・向山庭園のあるミニ谷戸がありました。それが元々は海老ヶ谷戸だったのだろうと思います。

 昔の地名は、もとは地形にしたがってつけられたものであっても、やがて集落の呼び名になります。集落は通例、くぼ地を避けて崖線上の高台につくられ、また何かの理由で移されますから、「何々ヶ谷戸」の地名が谷戸地形そのものの場所ではなく、台地上に残されるケースが出てきます。この海老ヶ谷戸も、そのような例だと思われます。

 馬喰ヶ谷戸も、谷戸地形があるのは板橋区側の前谷津川の支谷です。しかし、川越街道の下練馬宿ができ、馬喰たちが街道沿いに住むようになったため、宿場のはずれの小高いあたりに馬喰ヶ谷戸の地名が成立した、と考えられます。

 宮ヶ谷戸は、現在では明瞭な谷戸地形がみられませんが、内田家屋敷森のすぐ西側に、あさく狭いくぼ地があり、それをたどると石神井川に暗渠が口をあけています。このあたりは上練馬村では早くから開けた土地ですから、おそらく長い畑地開発の歴史のなかで埋め立てられ、現在のような地形になったのだろうと思います。府中市、高安寺の西側にあった谷戸も、発掘調査では縄文時代の水場が確認されていますが、今ではくぼ地ともいえないほどわずかなくぼみがあるだけで、ここも埋め立てられたものとされています。

 谷戸に対して、浅いくぼ地や、長いくぼ地には、何々窪、何々久保の地名がつけられています。武蔵の台地に多いすり鉢状の凹地は、丸久保です。

 「谷」は、田柄谷のように、行き止まりになっていないくぼ地につけられます。

 ただし、呼び分けは厳密なものではなく、羽根澤は、他と同様な谷戸地形であるものの「澤」がつけられています。三宝寺池のところも典型的な谷戸地形ですが、谷戸地名はありません。

 地名は、ある程度の法則性はありますが、例外もあり、ひとすじ縄ではいきません。

 

 

練馬区内の水路跡

白子川の源流部

貫井川たんけんマップ

杉並区 谷戸マップ

谷戸って何?