練馬区は、武蔵野台地の東部に位置します。
武蔵野台地は、古多摩川がつくった巨大扇状地です。約10万年前、それまで関東平野のほぼ全域まで広がっていた海が寒冷化とともにしりぞいてゆき、それにつれて河川が運んだ土砂が堆積し、扇状地が形成されました。
扇のかなめが青梅市で標高約120メートル。扇状地のへりが50メートル崖線です。崖下から、三宝寺池、善福寺池、井の頭池の武蔵野三大湧水をはじめ、いくつもの泉が湧きでていました。
50メートル崖線あたりを境に台地の傾斜はややゆるくなり、土質も変わり、湿り気が多くなります。このあたりが扇状地の裾野にあたります。武蔵野台地は指状に枝分かれし、その指の付け根にある湧水から小さな川が流れ出ていました。練馬区内に谷戸がいくつもあるのは、このような武蔵野台地東部の地形によるものです。
練馬区は西から東にゆるやかに低くなり、また全体に南側がやや高く、北側がやや低くなっています。武蔵野台地の背(稜線)の主脈が、練馬区より南側を通る玉川上水が引かれたあたりにあるためです。
最高地点は関町北、武蔵関公園の南側の約58m。最低地点は旭町、白子川沿いのニトリの駐車場付近、約12mです。
石神井川沿いでは、氷川台・羽沢付近の約22mが最も低く、このあたりからは地下鉄有楽町線の工事の際、約7万年前の貝殻が見つかりました。イタヤガイ(ホタテガイの仲間)、ウチムラサキガイ(大アサリ)など、やや寒い海にすむ貝で、そのころこのあたりが海辺だったことを示しています。
現・練馬区あたりにヒトが住みはじめたのは、約3万年前。旧石器時代のことです。
石神井川の本来の源流部、小平市鈴木小学校付近にある鈴木遺跡は、旧石器時代の武蔵野の代表的な遺跡で、石器を加工した跡などがみつかっています。そこがおそらく人々の生活の拠点で、遊動的な生活をしていた当時は、獲物を求めて、石神井川をくだり、またのぼり、時々隣りの川の流域に回遊する、といった生活をしていたと考えられます。
まだ土器はなく、生でたべられるものは生で、また、たき火で焼き、あるいは葉などをかぶせて蒸し焼きにする、といった調理方法だったと思われます。
遊動的な生活をしていた当時の住居は、木の枝を組み合わせて毛皮や葉をかぶせた程度の簡単な小屋掛けだったと思われます。
練馬区内には、45カ所(練馬区HP 2010年現在)の旧石器遺跡がみつかっています。大半が石神井川、白子川沿いの台地縁辺に位置します。
写真の「局部磨製石斧」は、部分的に磨いてツルツルにした石斧です。世界的にみると磨製石器は打製石器より新しい時代になってから作られたとされますが、日本列島では2万年以上前から出現します。(石神井公園ふるさと文化館常設展示)
「黒曜石接合資料」といいます。つなぎあわせると(接合)ひとつの石のかたまりになります。拳よりひとまわり大きいくらいの大きさです。石を打ち欠いて破片をつくり、かたちのよいものを選んで石器を作ります。その残りくずです。つまり、石のかたまりを運んできてこの場所で石器を作ったことが証明されます。東大泉3丁目の外山(とやま)遺跡で見つかりました。弁天池西側の高台、いま都営アパートがたっているあたりです。
武蔵関遺跡から出土した神子柴型槍先尖頭器(みこしばがたやりさきせんとうき)です。難しい名前ですね。
左右対称に丹念に仕上げた大型の石器(現存長約22cm)で、このタイプのものは、長野県上伊那郡南箕輪村の神子柴遺跡で最初に見つかったので、神子柴型と呼ばれます。尖頭器は、英語では point。先端が鋭く尖った石器の総称です。日本では、槍先に使われた(と考えれる)大型のものを特に槍先形尖頭器と呼んでいます。
神子柴遺跡など中部地方を中心に、黒曜石製のものがたくさん見つかります。この写真のものは硬質頁岩製で、東北地方に多く、これも「おそらく東北地方で作られた」と、練馬区文化財係の方はおっしゃっています。
このタイプの石器は、旧石器時代の終わり頃から縄文時代に移る頃、およそ1万5千年前から1万3年前頃のものと推定されます。東北地方では、縄文土器と一緒に出土することがあります。
この写真のものは3個に割れた状態で、同じ遺跡のなかのやや離れた場所から別々に見つかりました。使用痕から、槍先として使われたのち割れてしまったため、スクレーパー(掻器=そうき)つまり皮なめしの際に肉をこそげ落とすための道具として使われた、とみられます。旧石器時代のリユースですね。
神子柴型をみるたびにわたしは、ここまでかたちにこだわって作ったのはなぜなのだろう?と疑問に思います。
木の葉型とも呼ばれ、左右対称のなめらかなカーブに、ていねいに調整加工しています。比較的やわらかい頁岩はともかく、黒曜石を加工するには、鹿の骨や木の枝を押し当てて、少しずつ慎重に縁を割り落としていかなければなりません。そうまでして長時間かけて作っても、黒曜石製の槍先は、動物に突き刺せば、たちまち刃こぼれしたはずです。
むしろ見せびらかす、といってまずければ威信を示すためのものだったのではないか?と思います。黒光りする黒曜石製の槍がキラッと光る。太陽を背に槍をかざせば、まさに後光が差すごとくだったでしょう。カッコイイ!
では「光らぬ頁岩製の槍」は何のためのものか? こちらは実用品か? それとも黒曜石製が手に入らなかったための代用品か? いずれにせよ、石材が地元ではほとんど手に入らない武蔵野台地では、大型の石器は大変な貴重品で、割れてなお再利用した、それほど大事に使われた、という証しです。(石神井公園ふるさと文化館常設展示)
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練馬区内に現存する庚申塔131基(申待板碑1基を含む)と、文献にあるものの行方不明になって11基をすべて網羅した私家本ファイルです。
練馬の庚申塔についての簡単な解説と考察、そして全131基の写真と碑文・図像の陸図を付して1基ずつ、造立年号順に収録しています。また年号順と所在地別のリストがついていますので、どちらからも検索できます。
現存131基のうち、128基をおまいりし撮り歩きました。残り1基は、石神井公園ふるさと文化館の収蔵庫のなかに分解してしまわれてます。あと2基は、旧・上練馬村の名主だったお屋敷の塀のなかに安置されており、まだ拝ませてもらう機会に恵まれません。門のすきまからそこにたっていることだけは確認しました。
練馬の庚申塔については、これまで区教育委員会などから何冊も刊行されています。しかし、出版年が違うと、移転された庚申塔や消失した庚申塔もでてくるため、どれがどれと容易に同定できなくなっています。また碑文や旧地などのデータも不完全なものばかりです。
水路たんけんをしているうちに、あちこちで庚申塔に出会いました。他の石仏と違って、バラエティがすごく豊かなこと、道しるべになっているものも多く、読み解く楽しみがあること、など、庚申塔の面白さをいくつかあげられますが、実のところ、どうしてこれほど庚申塔にはまったのか、よくわかりません。
谷戸爺は谷戸の神の生まれ変わりで、青面金剛は谷戸の神の仮のすがたでもある、とこじつけていますが、そんな索で結ばれ、引かれたのかもしれません。
私家本(カラーコピー 一部モノクロ、ファイル綴じ、92ページ)頒布価格3,500円
「長享申待板碑」といいます。長享二年(1488)庚申待の供養のためにたてられたもので、庚申板碑としては、発見当時は日本最古、その後もっと古い板碑が2基みつかり、今では日本で3番目に古い庚申板碑とされています。
碑文には、「奉申待供養結集」と刻まれており、お坊さんらしい 融秀阿闍梨 道弥門 の名のあとに12名の名が並んでいます。どうやら僧侶の指導のもと、村人が結集して(寄り集まって)造立したものと思われます。もともと板碑は鎌倉時代や室町時代の中頃までは、大半が武士によってたてられました。
ところが室町時代後半に入り、村人が結集してたてるようになったことを証明するものです。もっとも村人といっても、まだ兵農未分離の時代ですから、土豪のような存在の人たちなのか、関東武士団に連なる農兵たちなのか、それとも純農民なのか、よくわかりません。ただ、結集して板碑をたてるだけの経済力と、庚申供養の概念を理解する知識と、力を合わせる結集力が、ムラに形成されてきた証し、ということはできます。与一五郎とか右馬五郎とか、親の名前をつけて名乗るのが中世的で面白いですね。
長享申待板碑は、『郷土史研究ノート2 練馬の庚申塔』(練馬郷土史研究会 1958)において、小花波平六(こばなわ へいろく)さんによって「練馬区春日町一丁目 稲荷社」で見つけた、と報告されました。住居表示前の当時の丁目で、現在の春日町一丁目、二丁目、四丁目にあたります。
ところが番地の記載がないものですから、どこの稲荷かがわかりません。石神井公園ふるさと文化館の渡辺学芸員に聞いても判明しません。地元のご長寿さんに聞いてみたら、こんな感じの社があったのは、春日神社のもう1本西側の道を石神井川に向かってくだる坂の途中ではないか、ということになりました。傾斜の具合からみると、石神井川の崖線だろう。また、地元育ちの方によると、左の写真の右奥にぼんやり写っている森が向山の「田中の森」だろう、といいます。それなら位置関係がよく合います。
しかし、そこにあったのは「第六天社」で、稲荷ではありません。稲荷も合祀されていたのか、小花波さんが誤って報告したものか(昔のこういう小祠は神社名を掲げていないところも多かった)、不明というほかありません。
どなたか、この「春日町 旧一丁目 稲荷社」の真相を、またこの写真の小祠を、ご存知ではないでしょうか?
この申待板碑がたてられた長享二年(1488)とは、どんな時代だったのでしょうか。
室町時代も後半になり、応仁元年(1467)には応仁の乱が起こり、戦国時代に突入しました。文明九年(1477)には、太田道灌に攻められ石神井城が落城、翌年、平塚城も落とされ、豊島氏は滅亡しました。勝者の道灌も、その8年後の文明十八年(1486)入浴中に謀殺されました。
長享二年は、その2年後にあたります。主君にそむき、同族が相戦い、戦乱が繰り返されました。そんな時代にも、いや、そんな時代だからこそ、村人は結集して板碑をたて、現世と来世の安穏を祈ったのです。
関東は、こののち間もなく後北条氏の支配するところとなり、やがて徳川幕府の世に移っていきます。関東武士団の解体とともに板碑をたてる風習もすたれ、庚申板碑は庚申塔へとかたちを変えていきました。
江戸時代になると、庚申塔が出現しました。練馬区内最古の庚申塔は、寛文三年(1663)にたてられました。
享保年間、将軍吉宗の時代に、練馬では庚申塔の第二造立ブームが起きました。 享保四年(1719)には、練馬で初めて道標入りの庚申塔がたてられました。板橋区内から移転されたものには、元禄十六年(1702)銘の塔があり、板橋地区ではやや先行していました。
練馬区内の庚申塔の主尊を近隣の区と比べてみると、グラフのようになります。